大友良英「Musics」を読んで

MUSICS

MUSICS

近年、「音」や「聴取」に関わる本が続々出版されている。
たとえば佐々木敦氏の著作をはじめ、
大谷能生「貧しい音楽」、デイヴィット・トゥープ「音の海」など。
最近、大友良英「Musics」という本を読んだ。
この本は音楽家の著者が日々感じたり、考えたりしている事が
その思考の過程・迷いも含めて正直に書かれている。
それは著者の即興演奏家としての実践に基づいた
リアルな思考である。

特に1章から3章にかけての話が興味深い。
2章の「聴取」では高橋悠治氏のワークショップの話が紹介されている。
音の聴き方には2種類あって、認識的にある音に焦点を当てて聴くという
聴き方と、特定の音には焦点を当てず全体をぼやんと聴くという聴き方が
あるそうだ。

前者は我々が普段意識せず自動的に行っている普通の聴き方である。また
集中して何かを聴くという時にも行っている。後者の音の聴き方は、普段
意識はしていないが、実は前者の聴き方に付随して行っているものである
(例えば会話中も焦点は言葉にあるが、実際には周りの環境音もぼやんと
聴いている)。
そしてこの全体をぼやんと聴くという聴き方を意識的に行うと全ての音の
境目や遠近感が溶け出していくというのだ。

夜の音の少ない部屋で10分ほどこの焦点を当てない聴取というのを試み
てみたがなかなか難しい。意識的に意識しないような聴き方をする訳だか
ら当然である。ある音を集中して聴くというのはよくやることだが、意識
的に音に焦点を合わせない聴き方というのは逆の発想で面白い。遠近感の
ある音が多い自然の中でやるといいだろうか。

そういえばフィールド録音で集中してモニターしている際に、同じように
音の焦点が合わなくなるような経験をしたことがある。川の流れる音など
を長い時間集中して聴いていると、その音の内側に入り込んだような、個
々の音に焦点が合わなくなり音が全体として聴こえてくるような感じにな
ることがある。焦点を当ててずっと聴いていると逆に焦点が合わなくなる
ということもあるのだろうか。
関係ないが、漢字(一字)をずーと見ているとその漢字が正しいのか間違
っているのか分らなくなることがあるが、これも不思議だ。